マモブログ

愛知県で活動しているマモさんです。 名古屋・大須にあるカフェ&バー「TOLAND」の常連であり、そこをSHOWROOMの聖地にするために日々SHOWROOMを配信しています。 今は派遣社員として働いていますが、いずれはフリーランスになり自分のやりたいことをしていきたいと思っています。 そのうちの1つとして僕の考えていることをブログで綴っていきます。

マモさんの生い立ち「小学校高学年〜中学生編」

こんにちは。

「ステキなひらめき思いつき」がキャッチコピーのアイデアマン・マモさんです。

 

自分の生い立ちを赤裸々に綴るブログ第2弾でございます。

 

第1弾のブログはこちら

‪マモさんの生い立ち「誕生〜小学校低学年編」

www.mamo3.net

 

僕がブログで最も書きたかったことが「僕の過去」です。

 

というのも、僕自身過去の出来事に引っ張られすぎていてなかなか自分の殻を破れなくてずっとずっと悩んでいました。

 

同じような人って世の中にたくさんいるんじゃないかなと思っていて、そういう方に読んでいただき僕と同じように過去の自分から解放されて新たなステージに挑んでいただけたらなぁと思っています。

 

なお、これから書く僕の過去の内容についてはあくまでも僕自身の記憶から紡ぎ出したものであり、自分の勝手な解釈で事実を捻じ曲げている表現があるかもしれません。

 

それぐらい過去の記憶に関しては曖昧なものが多いです。そこのところをご了承の上、読み進んでいただければ幸いです。

 

では、マモさんの生い立ち「小学校高学年〜中学生編」です。どうぞ。

 

 

父のお葬式の日以来、僕は

自分の素直な感情を出してよいのかどうかが分からなくなった。

愛想笑いが上手くなった。

本心が言えなくなった。

とても気をつかうようになった。

自分自身の人生を自分ごととして捉えられないようになった。

 

父が死んだことは特に何でもないことだったように振る舞うようにしていた。

 

 

僕の通っていた小学校は、小学校4年生に進級すると部活に入らないといけない決まりになっていた。

 

僕は小さい頃から運動があまり好きではなく家でファミコンをやるのが好きな男の子で、常に肥満児体型を維持していた。

 

それでも俗に言う「動けるデブ」ってやつで、50m走もそんなに遅くはなかったし、たまにやる草サッカーでも活躍する方だった。

 

部活を決める時、真っ先に入りたいと思ってたのはサッカー部だったがサッカー部志望の子たちはほとんど子供会とかでやってるサッカー少年団に所属している子たちばかりだった。

 

僕はサッカー部を諦めた。

 

理由は2つ。1つはサッカー少年団に入ってない奴なんかきっと受け入れてくれないに決まっていると思ったから。もう1つは「デブのくせにサッカー部きたぜあいつ!」って思われるに違いないと思ったからだ。

 

この頃から、自分のやりたいという意思は完全に押し殺して、周りの人たちがどういう風に感じるかを察知して物事を決めるようになっていた。

 

結局、運動の出来ない子達が集まる科学部という文系の部活に所属することに決め、母には科学部に入りたかったと報告した。

 

 

小学校4年生になってもう1つ大きく変わったことがあった。

 

それは兄の不登校だ。

 

3つ年上の兄は父が死んだ時小学校6年生で多感な時期だったんだと思う。

 

実際、父の死後は学校を休みがちになり中学に上がる頃には完全に不登校の状態になっていた。

 

結局兄は中学3年間1日も学校に行かなかった。

 

一方僕はというと、学校に行き続けた。

 

その間、兄は中学には行かなかったが不登校児を集めた学童保育(?)みたいなところにちょくちょく通うようになっていた。

 

それは家から遠かったのでいつも母が車で送り迎えしていた。

 

どんなことをしていたかは知らないけど夏休みのシーズンには山にキャンプに行ったりしていてそっちで友達もできているように見えた。

 

僕はそれが嫌だった。僕は一生懸命毎日学校に行って勉強とか頑張ってるのに兄は中学に行かずに遊んでいるって思っていた。(実際はどうだったのかは知らないけど)

 

母と過ごす時間は圧倒的に兄の方が多くて、僕は家の中でもわがまま言ったりしないようにしてなるべく母の負担を減らすように心掛けていた。

 

だから僕は、不登校の兄の姿を見て自分はそんな風になりたくないと常に心に言い聞かせてた。

 

でも本当に思ってたことは、もし自分が不登校になったら周りの人から「あそこの家は兄弟そろって不登校なんだよ」って言われるんじゃないかっていうのが嫌だったからだ。

 

そうなったら母が傷ついてしまうんじゃないか。

 

常に僕は周りにどう思われかを気にして生きていたのである。

 

 

学校で起きた出来事は家ではほとんど話さなかった。それは不登校の兄に気をつかっていたから。家で勉強するのも極力避けた。

 

この頃から宿題をやらない子になっていった。ただ、授業は必死に聞いていてテストはほとんど満点をとっていたと思う。

 

小学校高学年のことはこれといって楽しい思い出もなかったし、あまり覚えていない。

 

唯一強烈に覚えているのは小学校6年生の時の三者面談のこと。

 

担任の先生にこう言われた。「守くんはとても記憶力が良いです。テストの点数が良いのは記憶力のおかげです。でも中学に入ったらきっと記憶力だけでは限界がくると思うのできちんと予習と復習をするようにしてください。」

 

この担任の先生の言葉通り中学に進学してから勉強に手こずるようになった。

 

 

中学に入学したとき、また大きな変化が起きた。

 

兄が高校に行き始めたのである。

 

中学3年間学校に行かなかったのに高校に行けるんだ!ってものすごくビックリした記憶がある。

 

定時制の高校で、しかも昼間部がある高校だった。

 

兄はもともと運動神経抜群で小学生の時は選抜陸上部に所属していた。

 

この選抜陸上部とは何かというと、僕と兄が通っていた小学校は常設の陸上部が無くて、サッカー部とかバレー部とかの運動神経抜群の人たちが集められて選抜陸上部を兼任する形をとっていたのだ。

 

兄は高校に入るとサッカー部と陸上部を掛け持ちして、陸上部では定時制の全国大会に出場するほどだった。

 

兄の高校生活のことは何にも聞いてないので分からないが部活2つ掛け持ちするぐらいだったから人気者だったんだろう。

 

その証拠に、兄は高校3年間皆勤賞だった。中学3年間1日も登校しなかった人がこうこうである3年間皆勤って。相当充実した高校生活を送っていたに違いない。

 

一方僕はというと、中学に進学して最初の中間テストで相当なショックを受けた。

 

小学校の時はテストは満点ばかりだったから、中学でも満点に近い点数を取れるだろうと余裕ぶっこいていたのだが、蓋を開けてみたら散々な結果だった。

 

8クラスあって全部で300人ぐらいの学年だったんだけども、最初の順位は120番ぐらいだった。

 

小学校6年生の担任の先生の予言通りだった。記憶力だけでは限界だった。

 

それからは勉強自体があまり好きではなくなり、上の順位を目指すこともなかった。

 

中学2年生の頃、また大きな変化が起きた。

 

4つ年の離れた妹が不登校になったのである。小学校4年生の頃だ。

 

不登校になった理由はよく分からないが、上の兄を見て不登校でもいいんだって思ってたのかもしれない。

 

小学校6年生ぐらいから不登校になって中学3年間不登校だった兄。小学校4年生から不登校になった妹。その間で普通に学校に行く僕。

 

そんな3兄妹を女手一つで育てた母親はとてもよくできた人だ。

 

母はこの3人を決して比較することはなかった。

 

マモくんはちゃんと学校行ってるんだからあんたも学校に行きなさい!なんてことは一言も言ったことがない。

 

あなたが学校に行きたくないなら仕方ない。無理に行かなくてもいいんだよ。マモくんはマモくん。あなたはあなた。

 

そんな教育方針だった。

 

とてもよくできた母親だと思う。

 

でも、僕はすごく嫌だった。

 

頑張って学校に行ってる僕を誉めてほしかった。兄と妹と比較してほしかった。兄と妹よりも勉強ができることを誉めてほしかった。

 

この頃の僕は「兄と妹みたいには絶対にならない!」「あいつらの未来にはまともな人生なんて待ってないに違いないんだ!」「僕みたいにちゃんと学校行って勉強してる人が報われるんだ!」って毎日思っていた。

 

そして中学3年生になり受験シーズンが到来。

 

つづく。

 

 

いかがだったでしょうか?僕の当時の感情を赤裸々に書きました。

 

この頃の経験や感情があるので僕は人一倍承認欲求が強いです。周りからの評価を気にします。

 

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