マモさんの生い立ち「誕生〜小学校低学年編」
こんにちは。
「ステキなひらめき思いつき」がキャッチコピーのアイデアマン・マモさんです。
今日から何日かに分けて自己紹介がてら、自分の生い立ちについて書いていきたいと思います。
ブログを始めるにあたって、僕が最も書きたかったことが「僕の過去」です。
というのも、僕自身過去の出来事に引っ張られすぎていてなかなか自分の殻を破れなくてずっとずっと悩んでいました。
同じような人って世の中にたくさんいるんじゃないかなと思っていて、そういう方に読んでいただき僕と同じように過去の自分から解放されて新たなステージに挑んでいただけたらなぁと思っています。
なお、これから書く僕の過去の内容についてはあくまでも僕自身の記憶から紡ぎ出したものであり、自分の勝手な解釈で事実を捻じ曲げている表現があるかもしれません。
それぐらい過去の記憶に関しては曖昧なものが多いです。そこのところをご了承の上、読み進んでいただければ幸いです。
では、マモさんの生い立ち「誕生〜小学校低学年編」です。どうぞ。
フルネームは池田守。1982年2月1日愛知県岡崎市にて体重4030gの巨児として生まれる。
兄弟は兄1人、妹1人。3人兄弟の真ん中。
小さい頃からパズルや数字が大好きだったらしく、2歳の時に父が2進法を教えたところマスターしたという話を母から聞いたことがある。
幼稚園に入った時にはひらがなの読み書きができていたらしく、周りの園児が子どもっぽすぎて嫌だと常にぼやいていたらしい。(めっちゃ嫌なガキだwww)
僕の小さい頃の写真は極端に少ない。
兄は長男であり、父と母にとっては初めての子供。必然的に写真をたくさん撮るのでアルバムもたくさんできる。
妹は待望の女の子ということで必然的に写真をたくさん撮るのでアルバムもたくさんできる。
僕の小さい頃の写真が極端に少ないのは必然なのだ。
小学校低学年のころまでの記憶はほとんどない。それは小学3年生の時に起きたある出来事のせいで記憶がほとんど抹消されたからに違いない。
その出来事とは…。
あと一週間で僕が9歳を迎える1月下旬のころ、一本の電話が鳴り響く。
母がその電話を取り、電話を切ったあと「今から私は出かけるね。今夜は安城のおじいちゃんと、おばあちゃんが来るから一緒に過ごしてね」と。
本当にこんな台詞を言ったかどうかは覚えていないが、その日は隣の市である安城市に住んでいる母方の祖父母が家に来た。
その日、父は出張中だった。父は九州の福岡県直方(のうがた)市出身で高校を首席で卒業し集団就職で三菱自動車の岡崎工場に来たらしい。
高校首席ということで相当優秀だったみたいで、父の部屋にはパソコンが置いてありプログラミングを打ち込むのが趣味っぽかった。
バブル全盛期の三菱自動車はきっとイケイケだったに違いない。
僕が小学校に入る前までは三菱の社宅に住んでいたが、妹が生まれる前後には夢のマイホームに引越しをしていた。
マイホーム、子供は3人、安泰の自動車会社勤務。そこそこ裕福な家庭だったんだと思う。
そんな父は会社でも優秀だったに違いなく出張も多かったので、その日に父がいないことは特に違和感もなく日常的なことだった。
先程から僕の表現が気になっている読者がいるかもしれない。
父のことに関して「〇〇だったみたい」とか「〇〇らしい」という表現をやたら使っているのには訳がある。
母が帰ってきたのは1日後だったか、2日後だったか記憶にない。
次に記憶している場面はお通夜の日のことである。そう、父は出張先で死んでいたのである。
出張先の新潟で車の中で死んでいたと聞かされた。僕は勝手に交通事故で死んだものだと解釈した。
当時のお通夜事情はよく知らないが、父のお通夜とお葬式は自宅でおこなった。
お通夜の日に父方の祖母がきていた。
僕は福岡のおばあちゃんはとても苦手だった。なんか暗いというか不気味というか、かなり高齢だったので当時の僕には怖い印象しかなかった。
それに対して母方である安城のおばあちゃんはいつもニコニコしていて優しくて明るくて大好きだった。
お通夜の日は知らない大人たちがたくさん来ていてとても怖かった思い出しかない。
父は5人兄弟だか6人兄弟の末っ子で、お通夜には当然その兄弟たちが集まっていた。
僕から見たら叔父さん・叔母さんである。
1人か2人かは会ったことあるけど、他の人は全く面識がない。
池田家の親戚との付き合いはこんなものだった。
お通夜の記憶はほとんどないが、葬式の日はいろいろ覚えている。
僕が幼少期で1番記憶に残っているのはこの父の葬式の日である。
その日はとても天気が良かったのを覚えている。
自宅で葬式をするのだが、とりわけ家が大きいわけではないので庭に面している和室の窓ガラスを全部取っ払って解放して庭でお焼香をするスタイルがとられた。
お坊さんが和室でお経を唱え、参列者は狭い庭でお焼香をする。いつも生活している見慣れた家の風景はそこにはなかった。
黒い服の大人たちがたくさんいて、僕は小学校入学式にきるような着慣れない服を着ていてよくわからないけど正座して見よう見まねで数珠を持っていた。
安城市に住んでいる僕の親戚の2人姉妹も来ていた。長女のえりなちゃんと次女のまりなちゃん。
えりなちゃんは僕が生まれた次の日つまり2月2日生まれで、生まれた病院も同じだった。
そんな同い年のえりなちゃんは僕から見たらちょっと大人びていて、葬式の意味とかちゃんと分かっていたように思えた。
えりなちゃんは僕を励ますように「マモくん、泣いちゃダメだよ」と言わんばかりの顔をしていた。
参列者の中には僕の担任の先生と学級委員の男の子と女の子も来ていた。
女の子の方は誰だったか思い出せないが、学級委員の男の子はようちゃんという子だった気がする。
ようちゃんは僕の方を見ながらずっと笑顔だった。
「なんかいつもと違う雰囲気で面白いね。悲しくなんかないよ。大丈夫だよ」
僕にはそういう風に言ってる笑顔にしか見えなかった。
今思えば、担任の先生が「きっと守くんはお父さんが亡くなって悲しんでいるだろうから笑顔で守くんに会いに行こう」とかそういう感じのことを学級委員に伝えていたのかもしれない。
僕が強烈に覚えていることはこの2つのこと。えりなちゃんとようちゃんのことだ。
兄や妹がどんな表情だったのか?喪主をつとめた母がどんな感じだったのか?父と最後に何かことばを投げかけたのかどうか?そんなこと1ミリも覚えていない。
僕が強烈に覚えていることは「泣いたらダメだ!」ってことだった。
父が死んで悲しかったかどうかも覚えていないぐらい強烈かつ鮮明に僕の全身全霊に刻まれた。
この日から僕は自分の素直な感情を出してよいのかどうかが分からなくなった。愛想笑いが上手くなった。本心が言えなくなった。自分の感情を押し殺して相手が満足する態度をとるようになった。とても気をつかうようになった。自分自身の人生を自分ごととして捉えられないようになった。
父が死んだことは特に何でもないことだったように振る舞うようにしていた。
つづく。
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