マモブログ

愛知県で活動しているマモさんです。 名古屋・大須にあるカフェ&バー「TOLAND」の常連であり、そこをSHOWROOMの聖地にするために日々SHOWROOMを配信しています。 今は派遣社員として働いていますが、いずれはフリーランスになり自分のやりたいことをしていきたいと思っています。 そのうちの1つとして僕の考えていることをブログで綴っていきます。

マモストーリー

こんにちは。

「ステキなひらめき思いつき」がキャッチコピーのアイデアマン・マモさんです。

 

過去に「マモさんの生い立ち」と題して第6弾までブログを書きました。

 

今回のブログはそれら全てを網羅した完全版になります。

 

僕が生まれてから大学卒業までの22年間をまとめてあります。

 

ぜひ、最後まで読んでください。

 

それでは、どうぞ!

 

 

 

フルネームは池田守。1982年2月1日愛知県岡崎市にて体重4030gの巨児として生まれる。

 

兄弟は兄1人、妹1人。3人兄弟の真ん中。

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小さい頃からパズルや数字が大好きだったらしく、2歳の時に父が2進法を教えたところマスターしたという話を母から聞いたことがある。

 

幼稚園に入った時にはひらがなの読み書きができていたらしく、周りの園児が子どもっぽすぎて嫌だと常にぼやいていたらしい。(めっちゃ嫌なガキだwww)

 

僕の小さい頃の写真は極端に少ない。

 

兄は長男であり、父と母にとっては初めての子供。必然的に写真をたくさん撮るのでアルバムもたくさんできる。

 

妹は待望の女の子ということで必然的に写真をたくさん撮るのでアルバムもたくさんできる。

 

僕の小さい頃の写真が極端に少ないのは必然なのだ。

 

小学校低学年のころまでの記憶はほとんどない。それは小学3年生の時に起きたある出来事のせいで記憶がほとんど抹消されたからに違いない。

 

その出来事とは…。

 

 

 

あと一週間で僕が9歳を迎える1月下旬のころ、一本の電話が鳴り響く。

 

母がその電話を取り、電話を切ったあと「今から私は出かけるね。今夜は安城のおじいちゃんと、おばあちゃんが来るから一緒に過ごしてね」と言った。

 

その日は隣の市である安城市に住んでいる母方の祖父母が家に来た。

 

その日、父は出張中だった。父は九州の福岡県直方(のうがた)市出身で高校を首席で卒業し集団就職三菱自動車の岡崎工場に来たらしい。

 

高校首席ということで相当優秀だったみたいで、父の部屋にはパソコンが置いてありプログラミングを打ち込むのが趣味だった。

 

当時、パソコンを使いこなせる人はあまりいなかったと思う。

 

バブル全盛期の三菱自動車はきっとイケイケだったに違いない。

 

僕が小学校に入る前までは三菱の社宅に住んでいたが、妹が生まれる前後には夢のマイホームに引越しをしていた。

 

マイホーム、子供は3人、安泰の自動車会社に勤務。そこそこ裕福な家庭だったんだと思う。

 

そんな父は会社でも優秀だったに違いなく出張も多かったので、その日に父がいないことは特に違和感もなく日常的なことだった。

 

先程から僕の表現が気になっている読者がいるかもしれない。

 

父のことに関して「〇〇だったみたい」とか「〇〇らしい」という表現をやたら使っているのには訳がある。

 

母が帰ってきたのは1日後だったか、2日後だったか記憶にない。

 

次に記憶している場面はお通夜の日のことである。そう、父は出張先で死んでいたのである。

 

出張先の新潟で車の中で死んでいたと聞かされた。僕は勝手に交通事故で死んだものだと解釈した。

 

当時のお通夜事情はよく知らないが、父のお通夜とお葬式は自宅でおこなった。

 

お通夜の日に父方の祖母がきていた。

 

僕は福岡のおばあちゃんはとても苦手だった。なんか暗いというか不気味というか、かなり高齢だったので当時の僕には怖い印象しかなかった。

 

それに対して母方である安城のおばあちゃんはいつもニコニコしていて優しくて明るくて大好きだった。

 

お通夜の日は知らない大人たちがたくさん来ていてとても怖かった思い出しかない。

 

父は5人兄弟だか6人兄弟の末っ子で、お通夜には当然その兄弟たちが集まっていた。

 

僕から見たら叔父さん・叔母さんである。

 

1人か2人かは会ったことあるけど、他の人は全く面識がない。

 

池田家の親戚との付き合いはこんなものだった。

 

お通夜の記憶はほとんどないが、葬式の日はいろいろ覚えている。

 

僕が幼少期で1番記憶に残っているのはこの父の葬式の日である。

 

その日はとても天気が良かったのを覚えている。

 

自宅で葬式をするのだが、とりわけ家が大きいわけではないので庭に面している和室の窓ガラスを全部取っ払って解放して庭でお焼香をするスタイルがとられた。

 

お坊さんが和室でお経を唱え、参列者は狭い庭でお焼香をする。いつも生活している見慣れた家の風景はそこにはなかった。

 

黒い服の大人たちがたくさんいて、僕は小学校入学式にきるような着慣れない服を着ていてよくわからないけど正座して見よう見まねで数珠を持っていた。

 

安城市に住んでいる僕の親戚の2人姉妹も来ていた。長女のえりなちゃんと次女のまりなちゃん。

 

えりなちゃんは僕が生まれた次の日つまり2月2日生まれで、生まれた病院も同じだった。

 

そんな同い年のえりなちゃんは僕から見たらちょっと大人びていて、葬式の意味とかちゃんと分かっていたように思えた。

 

えりなちゃんは僕を励ますように「マモくん、泣いちゃダメだよ」と言わんばかりの顔をしていた。

 

参列者の中には僕の担任の先生と学級委員の男の子と女の子も来ていた。

 

女の子の方は誰だったか思い出せないが、学級委員の男の子はようちゃんという子だった気がする。

 

ようちゃんは僕の方を見ながらずっと笑顔だった。

 

「なんかいつもと違う雰囲気で面白いね。悲しくなんかないよ。大丈夫だよ」

僕にはそういう風に言ってる笑顔にしか見えなかった。

 

今思えば、担任の先生が「きっと守くんはお父さんが亡くなって悲しんでいるだろうから笑顔で守くんに会いに行こう」とかそういう感じのことを学級委員に伝えていたのかもしれない。

 

僕が強烈に覚えていることはこの2つのこと。えりなちゃんとようちゃんのことだ。

 

兄や妹がどんな表情だったのか?喪主をつとめた母がどんな感じだったのか?父と最後に何かことばを投げかけたのかどうか?そんなことなんて1ミリも覚えていない。

 

僕が強烈に覚えていることは「泣いたらダメだ!」ってことだった。

 

父が死んで悲しかったかどうかも覚えていないぐらい強烈かつ鮮明に僕の全身全霊に刻まれた。

 

この日から僕は自分の素直な感情を出してよいのかどうかが分からなくなった。

愛想笑いが上手くなった。

本心が言えなくなった。

自分の感情を押し殺して相手が満足する態度をとるようになった。

とても気をつかうようになった。

自分自身の人生を自分ごととして捉えられないようになった。

 

父が死んだことは特に何でもないことだったように振る舞うようになっていった。

 

 

僕の通っていた小学校は、小学校4年生に進級すると部活に入らないといけない決まりになっていた。

 

僕は小さい頃から運動があまり好きではなく家でファミコンをやるのが好きな男の子で、常に肥満児体型を維持していた。

 

それでも俗に言う「動けるデブ」ってやつで、50m走もそんなに遅くはなかったし、たまにやる草サッカーでも活躍する方だった。

 

部活を決める時、真っ先に入りたいと思ってたのはサッカー部だったがサッカー部志望の子たちはほとんど子供会とかでやってるサッカー少年団に所属している子たちばかりだった。

 

僕はサッカー部を諦めた。

 

理由は2つ。1つはサッカー少年団に入ってない奴なんかきっと受け入れてくれないに決まっていると思ったから。もう1つは「デブのくせにサッカー部にきたぜあいつ!」ってからかわれるに違いないと思ったからだ。

 

この頃から、自分のやりたいという意思を完全に押し殺して、周りの人たちがどういう風に感じるかを察知して物事を決めるようになっていた。

 

結局、運動の出来ない子達が集まる科学部という文系の部活に所属することに決め、母には科学部に入りたかったと報告した。

 

 

小学校4年生になってもう1つ大きく変わったことがあった。

 

それは兄の不登校だ。

 

3つ年上の兄は父が死んだ時小学校6年生で多感な時期だったんだと思う。

 

実際、父の死後は学校を休みがちになり中学に上がる頃には完全に不登校の状態になっていた。

 

結局兄は中学3年間1日も学校に行かなかった。

 

一方僕はというと、学校に行き続けた。

 

その間、兄は中学には行かなかったが不登校児を集めた学童保育(?)みたいなところにちょくちょく通うようになっていた。

 

それは家から遠かったのでいつも母が車で送り迎えしていた。

 

どんなことをしていたかは知らないけど夏休みのシーズンには山にキャンプに行ったりしていてそっちで友達もできているように見えた。

 

僕はそれが嫌だった。僕は一生懸命毎日学校に行って勉強とか頑張ってるのに兄は中学に行かずに遊んでいるって思っていた。(実際はどうだったのかは知らないけど)

 

母と過ごす時間は圧倒的に兄の方が多くて、僕は家の中でもわがまま言ったりしないようにしてなるべく母の負担を減らすように心掛けていた。

 

だから僕は、不登校の兄の姿を見て自分はそんな風になりたくないと常に心に言い聞かせてた。

 

でも本当に思ってたことは、もし自分が不登校になったら周りの人から「あそこの家は兄弟そろって不登校なんだよ」って言われるんじゃないかっていうのが嫌だったからだ。

 

そうなったら母が傷ついてしまうんじゃないか。

 

常に僕は周りにどう思われかを気にして生きていたのである。

 

 

学校で起きた出来事は家ではほとんど話さなかった。それは不登校の兄に気をつかっていたから。家で勉強するのも極力避けた。

 

この頃から宿題をやらない子になっていた。

 

ただ、授業は必死に聞いていてテストはほとんど満点をとっていたと思う。

 

小学校高学年のことはこれといって楽しい思い出もなかったし、あまり覚えていない。

 

唯一強烈に覚えているのは小学校6年生の時の三者面談のこと。

 

担任の先生にこう言われた。「守くんはとても記憶力が良いです。テストの点数が良いのは記憶力のおかげです。でも中学に入ったらきっと記憶力だけでは限界がくると思うのできちんと予習と復習をするようにしてください。」

 

この担任の先生の言葉通り中学に進学してから勉強に手こずるようになった。

 

 

中学に入学したとき、また大きな変化が起きた。

 

兄が高校に行き始めたのである。

 

中学3年間学校に行かなかったのに高校に行けるんだ!ってものすごくビックリした記憶がある。

 

定時制の高校で、しかも昼間部がある高校だった。

 

兄はもともと運動神経抜群で小学生の時は選抜陸上部に所属していた。

 

この選抜陸上部とは何かというと、僕と兄が通っていた小学校は常設の陸上部が無くて、サッカー部とかバレー部とかの運動神経抜群の人たちが集められて選抜陸上部を兼任する形をとっていたのだ。

 

兄は高校に入るとサッカー部と陸上部を掛け持ちして、陸上部では定時制の全国大会に出場するほどだった。

 

兄の高校生活のことは何にも聞いてないので分からないが部活を2つ掛け持ちするぐらいだったから人気者だったんだろう。

 

その証拠に、兄は高校3年間皆勤賞だった。中学3年間1日も登校しなかった人が高校3年間皆勤って、相当充実した高校生活を送っていたに違いない。

 

一方僕はというと、中学に進学して最初の中間テストで相当なショックを受けた。

 

小学校の時はテストは満点ばかりだったから、中学でも満点に近い点数を取れるだろうと余裕ぶっこいていたのだが、蓋を開けてみたら散々な結果だった。

 

8クラスあって全部で300人ぐらいの学年だったんだけれども、最初の順位は120番ぐらいだった。

 

小学校6年生の担任の先生の予言通りだった。記憶力だけでは限界だった。

 

それからは勉強自体があまり好きではなくなり、上の順位を目指すこともなかった。

 

中学2年生の頃、また大きな変化が起きた。

 

4つ年の離れた妹が不登校になったのである。小学校4年生の頃だ。

 

不登校になった理由はよく分からないが、上の兄を見て不登校でもいいんだって思ってたのかもしれない。

 

小学校6年生ぐらいから不登校になって中学3年間不登校だった兄。小学校4年生から不登校になった妹。その間で普通に学校に行く僕。

 

そんな3兄妹を女手一つで育てた母親はとてもよくできた人だ。

 

母はこの3人を決して比較することはなかった。

 

マモくんはちゃんと学校行ってるんだからあんたも学校に行きなさい!なんてことは一言も言ったことがない。

 

あなたが学校に行きたくないなら仕方ない。無理に行かなくてもいいんだよ。マモくんはマモくん。あなたはあなた。

 

そんな教育方針だった。

 

とてもよくできた母親だと思う。

 

 

 

でも、僕はすごく嫌だった。

 

頑張って学校に行ってる僕を誉めてほしかった。兄と妹と比較してほしかった。兄と妹よりも勉強ができることを誉めてほしかった。

 

この頃の僕は「兄と妹みたいには絶対にならない!」「あいつらの未来にはまともな人生なんて待ってないに違いないんだ!」「僕みたいにちゃんと学校行って勉強してる人が報われるんだ!」って毎日思っていた。

 

中学3年になり高校受験の日が近づいてきた。

 

僕の成績はオール3に少し毛が生えたぐらいの成績で、特に成績優秀でもなければ落ちこぼれということでもなかった。

 

ただ私立の高校だけは絶対に入りたくなかった。

 

理由は単純。池田家の経済状況のことを考えたら私立高校には入れないと思っていたからだ。

 

話は少し変わるが、僕は小学生の頃から女性の先生には気に入ってもらえる傾向にあった。

 

今思えば、普段から毎日ニコニコしてたし(ほぼ作り笑いだったけど)挨拶とかもしっかりする(周りからの評価を人一倍気にするから)生徒だったので気に入ってもらいやすかったのかもしれない。

 

中学3年の時の担任の先生は杉山先生という女性の先生だったが、ものすごくえこひいきしてもらっていた覚えがある。

 

というのも、僕は宿題を全然出さない生徒だったのだが杉山先生にはあまり怒られた記憶がない。

 

僕と同じように宿題をしてこなかった玉木くんは毎日こっぴどく叱られていた覚えがある。

 

とにかく僕は杉山先生には気に入ってもらえていたことには違いないと思う。

 

ある日、杉山先生に呼び出されてこんなことを言われた。

「高校受験の推薦枠で母子家庭枠というのがあるんだけどマモルくん、これ使ってみる?」

 

え?そんなのあるんの?

 

この母子家庭枠を使うと筆記試験無しで面接だけで合格がもらえるらしく、1つの中学校から1〜2人のこの枠が与えられるとのこと。

 

この頃勉強にあまり自信なかったので迷わずその母子家庭枠を使うことにした。

 

しかも自分の学力にあった公立高校を選べるとのこと。

 

僕は2つの高校で迷っていた。

 

少し背伸びをすれば入れそうな岡崎西高校と今の学力で十分入れる岡崎東高校。

 

で、僕が選んだのは後者の岡崎東高校。

 

なぜか?

 

苦労して岡崎西高校に入ったとしても高校生活ではきっと学力テストでドベの方になっちゃうんだろうなぁと。

 

岡崎東高校だったら順位は上位にいけるんじゃないかなぁと。

 

この頃からなんとなくこんな思考が身についていて極力努力をせずに楽する選択を選ぶようになっていた気がする。

 

そして、高校受験は面接だけであっさり合格し無事岡崎東高校に入学できた。

 

で、高校の思い出はというと・・・。ほんっとになんもない。

 

部活も適当、勉強も適当、友達関係も適当、恋愛は皆無wwwそんな超平凡な高校生活だった。

 

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高校3年生の時の僕。友達いなさそうな顔してるwww

 

 

高校入学時にはいわゆる高校デビューってやつをしてみようかと企んではいた。

 

小学生、中学生の時は全く目立つ要素がない子だったけど心の中ではみんなからチヤホヤされる人気者になりたかった。

 

だから高校入学したらキャラチェンジをして人気者になりたいなぁと密かに思っていた。

 

しかしすぐに断念した。

 

というのも同じ中学の同級生も多かったため「マモル、高校デビューとかしてんじゃん」とか「中学の時とキャラ全然違くね?」とか言われるのが嫌だったからだ。

 

とにかく人の目を気にする性格だった。

 

適当な高校生活を送っていたものの一応、当初の思惑通り学力テストでは上位にいることができ国公立大学を目指す進学クラスには属していた。

 

しかし、特に目標もなくダラダラと過ごしていた。

 

大学受験はセンター試験を受けたが国公立大学は全て不合格で、滑り止めで受けた私立大学の愛知大学は合格。南山大学は補欠合格していた。

 

補欠合格とはいわゆるキャンセル待ちみたいなもので、当時の担任の先生からは補欠合格はたいてい合格になると教えられた。

 

が、不合格だった。この時から少し大人に対して不信感を抱くようになった。

 

滑り止めで合格した愛知大学に行くか、浪人するかで迷っていた。

 

私立の大学だけは絶対に入りたくなかった。

理由は単純。池田家の経済状況のことを考えたら私立大学には入れないと思っていたからだ。

 

ところが、母親からこんな提案が来た。

「実は母子家庭枠で市役所から奨学金が出るの。しかも利子は無くて大学卒業後最大10年返済できるから愛知大学行っても大丈夫だよ」

 

またしても出てきた母子家庭枠!

 

僕は浪人するのはめんどくさいと思ったので愛知大学に進学することを決意。

 

この頃は何にも考えず奨学金をゲットして大学に進学したんですが、今思えば父親の死があったからこそこういう優遇を受けていたんだなぁと感じている。

 

中学・高校時代は、父親はいなくて当たり前だったし、もしも父親がいたら・・・なんてことも考えることすらなく過ごしていた。

 

でも間違いなく何にも苦労せずに高校、大学と進学をできたのは父親のおかげだった。

 

そして、いざ愛知大学へ!

 

僕はウキウキしていた。

 

なぜなら高校デビューできなかったリベンジを大学デビューで果たそうとしていたからだ。

 

岡崎東高校から愛知大学豊橋校舎)に進学したのは僕を含めて5〜6人ぐらいだったので、キャラチェンジをしても大丈夫だと確信した。

 

僕はとにかく大学生になることにワクワクしていた。

 

いや正確に言うと、高校生までの自分のことを知ってる人がいない世界に飛び込むことができることにワクワクしていた。

 

大学生になれば、周りは僕の過去を知らない。

 

大学生デビューしてやろうと思っていた。たくさん友達作ろうって思っていた。

 

入学式の日のためにいろいろ予習をした。

 

大学までは自宅からJR岡崎駅に行き、そこから豊橋駅で乗り換え。豊橋駅からは豊橋鉄道(通称とよてつ)で乗り換えて大学前駅というところで降りれば目の前に愛知大学はある。

 

入学式は大学構内ではなく豊橋文化会館で行われることもチェック済。駅を降りたら大学とは反対側に歩いていけばOK。

 

事前に全てのことはチェックしてある。完璧だ。

 

そして、いよいよ入学式の日。気合いを入れて家を出る。

 

事前にチェックしてあった予定通りの時刻の電車に乗る。順調だ。

 

豊橋駅に到着し、とよてつに乗り換える。順調だ。

 

とよてつに乗ろうとした時だった、何かものすごく違和感を感じる。

 

ん?なんだろう?この違和感。。。

 

辺りを見回してみてその違和感の正体はすぐに分かった。

 

 

 

 

みんなスーツ着てる!!!

 

 

 

 

僕はというと超私服なのである。どこからどう見ても超私服なのである。

 

なんなら少し張り切ってちょっとオシャレをしている超私服。。。

 

「ねえ、神さま、大学の入学式ってスーツで行くんですか?教えてください。」心の中でそう叫びながら満員電車の扉は閉まり僕を大学まで運んでいく。

 

大学前駅を降りると私服姿の数人がそそくさと大学の正門を通っていく。

 

大多数のスーツ集団は正門とは逆の方向に流れていく。

 

とっさに僕は頭をフル回転して次に取るべき行動を考えた。

 

私服姿の人達はきっと新入生じゃなく2年生以上の人達だ。僕は私服だ。スーツではない。つまり新入生ではない。よし!正門に行こう!

 

ということで入学式が行われる会場ではない大学構内に入り、しばらく時間を潰して逆方向から来た電車に乗って自宅まで向かった。

 

実はこの時、自分の中でめちゃくちゃ悔しい気持ちがあった。

 

入学式に行けなかったことの悔しさではない。

 

実は、私服姿で来てしまった新入生もちらほら会場に向かっているのを目撃していたのだ。

 

でも私服姿で来たことを誰かにからかわれるんじゃないか?とか、変な目で見られるんじゃないか?という周りの目を気にして入学式の会場に行けなかったことが悔しかった。

 

結局いつまで経っても周りの目を気にしているヘナチョコ人間なんだと自分を責めてしまっていた。

 

あれだけ気合い入れて大学デビューを果たそうと考えていたが、初日から大きくつまづいてしまうこととなった。

 

ちなみに入学式は通過儀礼的な記念式典みたいなもので、出ても出なくても大丈夫なイベントのようだった。

 

翌日からはオリエンテーションと称した大学での授業の取り方の説明や必須科目の語学クラスに分かれての説明会などがあって、いろんな人と喋る機会はあったが、この頃の僕は喋るのがそんなに上手くなかったので友達は全然できなかった。

 

あと、この頃の携帯電話事情はというともちろんスマホなんてものは存在していなくて、みんな折り畳み式のガラケーを使っていた。

 

LINEとかTwitterなんてあるはずもなく連絡先交換するには電話番号を交換するかメールアドレスを交換するしかなかった。

 

結局語学クラスが一緒だった男の子2人とは電話番号を交換したが、友達というよりかは社交辞令で交換したって感じだった。

 

やばい。このままだと高校までの生活と何にも変わらない。いや、むしろ高校までであれば気軽に話せる人は数人いた。大学4年間もっとみじめな自分で過ごすハメになるかもしれない。なんとかせねば。

 

僕に残された道は1つしかなかった。

 

どこかサークルに入ろう!!

 

しかし、ここでも大きな誤算が。

 

語学が一緒の社交辞令お友達が教えてくれたのは、サークル勧誘が1番大盛り上がりしたのは入学式の日だったということ。

 

 

 

 

 

 

 

終わった

 

 

 

 

 

というのもサークル勧誘するとき、先輩たちが新入生勧誘する際の目印はスーツ姿かどうかということらしく、大きなチャンスは入学式当日だったのである。

 

そんな大チャンスを逃した僕は途方に暮れていた。

 

オリエンテーションも落ち着いて来た頃、サークル勧誘しているサークルは日に日に少なくなり、サークルに入ること自体難しくなっていた。

 

自分が入りたいサークルに自分から声をかければ済む話なんだけど僕にはそれができなかった。

 

そんな時こんな声が聞こえてきた。

「クイズ愛好会主催の新入生限定1万円クイズ大会やってるよー!遊びに来てねー!」

 

ん?何だそれ?クイズ?

 

僕はテレビ番組の中でもクイズ番組は好きだった。アタック25マジカル頭脳パワー、クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!、100人に聞きました、ヒントでピントクイズ年の差なんて・・・(若い子は全然知らないだろうなぁw)

 

クイズにはまぁまぁ自信があったので参加して見ることにした。

 

受付では名前、学部、住んでる地域、意気込みを書く欄があった。

 

住んでる地域のところに「岡崎市」と書くと、受付をしていた背の高い男性が「え?マジ?俺も岡崎!」と声をかけてくれた。

 

その男性に「あの〜、意気込みの欄って何て書けばいいですかねぇ?」と聞くとその男性はニヤニヤしながら「がんばりんこ!って書けばいいよ〜」と言って笑い出した。

 

この時、僕の中で何かが弾けた。これは千載一遇のチャンスだと悟った。

 

僕は無言で意気込みの欄に「がんばりんこ!」と書いた。

 

先程の男性は一瞬あっけにとられて鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした後、大きな声で「こいつおもれぇ〜!本当に書きやがった!」と言って腹を抱えながら大笑いした。

 

僕はキタ!!!って思った。

 

笑われたのがめちゃくちゃ快感だった。

 

高校までにはなかった自分の殻が破れた瞬間だった気がする。

 

その後、僕の苗字が池田だということを知り速攻でラッキーというあだ名をつけられた。

 

そして、クイズ大会が始まった。

 

新入生限定のクイズ大会とは言え、入学式から1週間ほど経っていたので参加者は僕以外ほとんどサークルに入会している人達だった。

 

アウェイな空気だったけど僕は1位になる自信はあった。

 

しかし、早押しがめちゃくちゃ速い女の子がいてその子には負けてしまい結果は2位。

 

ベスト3になった人にはインタビューがあって大会の感想を言ってほしいと言われた。

 

この時、僕は頭をフル回転してどういうことを言ったらこの会場にいる人たちが盛り上がるか考えた。

 

こういう時でも自分の本心は後回しで周りの人達がどういう目で自分のことを見るのかを気にしてしまう。めんどくさい性格だ。

 

そして出てきた言葉がこちら。

 

 

 

「クイズ愛好会に入ります!」

 

 

 

僕の予想通り会場は大盛り上がりだった。

 

こんな感じで僕のサークル生活がスタートするのであった。

 

 

大学生活を振り返るととにかく楽しかった思い出しかない。

 

いや違う。楽しかったというよりも、この頃はプレッシャーとか悩みとかがほとんどなかったと思う。

 

いや違う。悩みはあったがその悩みは無理矢理なかったことにしていたんだと思う。

 

悩みを無理矢理なかったことにできたのは、初めて彼女ができたことに尽きる。

 

無事にクイズ愛好会というサークルに入った僕は3ヶ月後に初めての彼女ができた。

 

お相手は同じサークルのSさん。

 

大学4年間ずっと彼女と付き合っていて恋愛関係では特に悩みはなかった。

 

彼女との出来事(いろいろありましたwww)はいつか「マモさんの女性遍歴」というブログで紹介したいと思う。乞うご期待!www

 

ではどんな悩みがあったのか?

 

僕の悩みと言えば家族のことである。

 

僕が高校生の頃に話は戻るが、その頃3つ年上の兄は専門学校に通っていてバイトもしていて家に帰るのが遅い日が多々あった。

 

その度に母は兄が帰ってくるまで必ず起きていて帰ってくるのを確認してから寝る毎日を送っていた。

 

でも僕の時は違った。

 

僕が通っていた大学は愛知県の豊橋市というところにあって、僕が住んでいる岡崎市から電車で小一時間ぐらいかかるところにある。

 

サークル室は24時間解放されていて大学構内は夜中でも人がいるような大学で、夜中は軽音部とかがガンガンに音楽を奏で、社交ダンス愛好会は夜中でも踊っていた。

 

そんな自由度の高い大学だったので、僕は終電ギリギリまでサークルを楽しみ、終電で帰る日々が続いた。

 

家に帰るのはたいてい日にちが変わっている。

 

が、僕が帰ってくる頃母はもう寝ていた。

 

母曰く「マモくんは危ないことやいけないことすることは、絶対ないだろうから特に心配してない」とのこと。

 

そう。僕はそういう風に見られているのだ。

 

不登校の兄や妹と違ってきちんと学校に行き進学をし優等生なのである。

 

そして、僕は優等生でいなければならない。そんな感覚だった。

 

だんだんと家に帰るのも嫌になってきた僕は次第に終電を逃して家に帰らずに徹クイをすることが多くなってきた。
※徹クイとは徹夜でクイズをすること

 

さらに彼女の家に泊まったりすることも多くなり、家に帰らない日が多くなってきた。

 

最初のうちは家に帰らない日は必ず母に連絡をしていたが、だんだんそれすらもなくなり家に帰る日に連絡するようになっていた。

 

最大10日間ぐらい帰らないこともあって、さすがにその時は母からメールが来た。

 

「生きてる?」

 

たった4文字の素っ気ないメール。僕の返信は

 

「なんとか」

 

僕も4文字で返す。

 

この時の僕の心境としては、母親には愛されてないのかなぁって思っていた。

 

3兄妹の中で1番愛されていないんじゃないかと思っていた。

 

でも、今思えばこの「生きてる?」にもきちんと意味があったのかもしれない。

 

父が死んだことに対して、母は、息子が生きてるのを確認するだけでも安心だったのかもしれない。

 

この4文字メール事件の前か後ろかは覚えていないが、我が家ではこんな事件が起きていた。

 

僕がいつも通り夜遅くに家に帰ってくると、電気がついていないリビングで母が号泣していた。

 

どうしたの?と聞いてみたところ原因は妹だった。

 

4つ下の妹は僕が大学1年生の時、中学3年生。

 

妹は小学4年生から不登校で中学は1日も登校していない。

 

妹のすごいところは不登校であるにも関わらず同級生たちと仲良く遊ぶこと。

 

そんな中、妹はある事件を起こした。

 

万引きである。

 

どうやら悪い同級生にそそのかされ、万引きに加担してしまったそう。

 

妹は万引きなんてしたくなかったそうだ。

 

母の説明を聞きながら僕は「ふーん」と興味ないリアクション。

 

母はお店まで行き、お店の人に謝って特に大きな事態にはならなかったみたいだが、その後が大変だったらしい。

 

兄が激昂したのだ。

 

妹の髪を引っ張って父の仏壇の前まで連れて行き、「お父さんに謝れ!」とわめき散らしていたらしい。

 

兄はとても真面目だが、キレると本当に怖い。

 

それを見ると僕が幼い頃にかすかに記憶している父がキレたときの光景がフラッシュバックする。

 

そういうところは父と兄は似ているとずっと思ってた。

 

兄はきっと父の代わりをしたのだと思う。

 

もし父が生きていたら妹を怒鳴り散らす。万引のような犯罪を我が家の人間は決してやってはいけない。

 

だから父に謝れ!って怒鳴ったのだと思う。

 

そんな話を聞いても僕は「ふーん」という素っ気ないリアクション。

 

その後、母はこんなことを言い出した。

 

 

「私、マモくんにお父さんの死因ってちゃんと話したことあったっけ?」

 

 

この時も前の「ふーん」と同じぐらいのテンションで「たぶん聞いてない」と答えた。

 

母は続けて泣きながらこう言った。

 

 

「お父さんの死因はね、自殺なの」

 

  

 

 

薄々気付いていた。 

 

でもその時まで母にお父さんの本当の死因について聞いたこともなかったし、聞いてはいけないものだと思っていた。

 

死因が自殺だと聞いても僕は無関心な感じで「ふーん、そうなんだ」と他人事のように返事をした。

 

妹が万引きに加担をし、兄が妹を激昂し、母がリビングで号泣している。そんな状況を僕は他人事のように見ていた。

 

この頃、僕は完全に家族というものに関心がなくなっていた。

 

それは、小学生から高校生まで自分を押し殺して過ごしていた苦痛な毎日が大学生になった途端に恋人ができ楽しい時間を過ごせる毎日に変わりもう家族のことを考えるのは嫌になっていたからだと思う。

 

お父さんはお父さん。僕は僕。

全く別の人なんだから、今さら死因が自殺だと聞いて僕は何を思えばいいんだよという気持ちもあった。

 

兎にも角にも、この時の僕はお父さんの死因に動揺するどころか無関心だったのだ。

 

 

 

それよりももっと僕の心をえぐるような出来事が1年後に起こる。

 

僕が大学2年生の時の8月にそれは起こった。

 

その頃、3つ上の兄は専門学校を卒業して地元の自動車関係の会社に就職していた。

 

妹はというと年齢的には高校1年生になっているはずの年齢。

 

だけど小学校4年生から不登校で中学3年間も不登校

 

兄と違って高校に進学せずに毎日家にいた。

 

さすがの母もこの時ばかりは妹の今後について心配もしてた。

 

ある日妹は母に「これにお母さんの名前書いてって言われたから書いて」と言い、ある紙を差し出した。

 

その紙は履歴書だった。

 

妹は8月の自分の誕生日の日に、母に何も言わずにコンビニのアルバイトの面接に行ってきたのだという。

 

アルバイトの募集が16歳以上だったので誕生日を迎えるまで動き出せずにいたらしい。

 

履歴書の書き方とかも自分で調べて、自分の意志でコンビニまで行ったみたいだ。

 

で、履歴書には18歳未満は親の同意のサインが必要でアルバイト先のコンビニの人から同意のサインをもらってきてと言われて母に履歴書を見せたのだ。

 

この後、面接に合格して妹はアルバイトを始めることになる。

 

 

 

この時僕は絶望に近い感情が溢れ出した。

 

年齢が3つ上の兄が僕より先に社会人としてお金を稼ぐことは仕方がないと思っていたが、まさか4つ下の妹が自分より先に社会人としてお金を稼ぐなんて思ってもみなかったのでものすごくショックだった。

 

小学生から高校生までの間、兄や妹みたいになんか絶対にならない!真面目に学校に通っている僕は将来2人に負けないような幸せな暮らしをしてやる!お金だって一番稼いで三兄妹で一番立派になってやる!ってずっと思っていた。

 

なのに妹に先を越されてしまっというなんとも言えない敗北感のような気分になり、自分に自信がなくなっていた。

 

僕は大学生になってからバイトはせずに母からお小遣いをもらって大学に通っていて、授業よりもクイズサークルに没頭して毎日遊んでいるような生活をしていた。

 

大学2年になっても就職のことなんて全く考えてなくて楽しいことに流されていた。

 

僕はずっとアリとキリギリスだったらアリだと思っていた。兄や妹はキリギリスだと思っていた。

 

毎日毎日、一生懸命学校に通い将来のために勉強していればいい暮らしができると思っていた。

 

ところがキリギリスだったはずの兄と妹の方が先にお金を稼ぎ、アリだった僕が置いていかれてしまったのでは?という気持ちになっていた。

 

大学ではろくに勉強もせずに遊び呆けていたので自分こそがキリギリスなのではないかと自分を責めるようになってしまっていた。

 

この頃の僕にとって「お金を稼ぐ」ということははるかに難しいものだと思っていた。

 

というか「怖い」というイメージに近かったのだと思う。

 

そもそも大学に進学した時も、就職してお金を稼ぐ感覚が分からないし怖いからとりあえず進学しとくかという感じで大学受験をしていた。

 

今思えばその頃の僕は、心の奥底で就職するということは父親みたいに自殺をする要因になるのではと無意識に感じていたかもしれない。

 

だからバイトするのもなんとなく避けて大学生活を送っていたのだと思う。

 

兄や妹に対するコンプレックスはどんどん強まる中、それを吹き飛ばすように僕は大学生活(主にクイズサークル)に没頭した。

 

大学の授業で学んだことなんて今ではほぼ忘れてしまうぐらい適当に受けていたが、単位だけは器用に取っていたので、大学3年生の頃には自由な時間も少しでき始めた。 

 

なので僕も初バイトとして家庭教師をするようなり、その後ガソリンスタンドのバイトをするなどしてお金を稼ぐことにありつけた。

 

「怖い」というイメージは全然なく、どちらかというと楽しく仕事できていたと思う。

 

大学3年生後半からは就活が始まった。

 

就職先は全くもって真剣に探す気がなかった。

 

この頃の僕は家族に対しては全くもって自信がなかったが、クイズサークルの中では仕切り役をやったり、人と話すのが得意だったり、単位も簡単に取っていたので対外的には自分に自信が持てていた。

 

なので就職先は正直どこでもよかったし、どの企業に行ってもそれなりに活躍できると自負していた。

 

結局、就活として3社面接に挑み、3社とも合格。

 

これ以上就活するのはめんどくさいと思って3社の中で1番面白そうな100円ショップの企業に晴れて就職することになる。

 

~完~

 

 

 

この後、就職しサラリーマンとして4年半働いたあと転職をしいろんなビジネスに手を染めていきます笑

 

その辺りの話は、またちょくちょくブログに上げていこうと思ってますのでよろしくお願いします。

 

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最後まで読んでいただきありがとうございました。